ゆかりが、一歩私に近づいて言った。
「でも、全部、私たちのためにやってたことだったんでしょう」
「それは、」
そうだ――私は、この三人の関係を守りたくてやったんだ。
でもそんなの、裏切られた二人にすれば、余計なお世話じゃないか。
私の信用はおろか、二人の周囲への信用までをも失わせてしまう行為じゃないか。
そんなの――赦されていいわけないじゃないか。
「二人のためなんかじゃ、ない。私は勝ちたかったの。絶対負けたくなかったの。ただそれだけのために、二人を裏切って、」
「ただ自分が勝ちたい、それだけのために骨折を我慢してミットを構え続けたの?」
ゆかりの言葉が、吸血鬼を貫く銀弾のように私の一番奥をえぐる。
けれど私は、止まってはいけない。
ここで二人を裏切りきらないと、これ以上二人を傷つけるわけにはいかないから。
これ以上、最低な私の最低な人生に二人を関わらせるわけにはいかないから。
「そう、だよ。そうだよ。私は二人のことなんてどうでもいいの。自分に才能があるってことさえ確認できれば、自分の人生さえ勝てれば、二人が負けたって、」
「嘘。猫ちゃん、嘘ついてる。猫ちゃんが私たちのことどうでもいいなんて、そんなこと言うはずない」
「なんで? 自意識過剰なの? そんなわけないじゃん、私は、」
「私たちとの関係よりも自分の人生の勝ちを気にしたりする人が、指の骨折なんて、一生を棒に振るかもしれない重大な怪我を放置するわけないもん」
私は、ゆかりの言葉にぐうの音も出なかった。
唇を引き結んだ私に、縋りつくように上様が被さる。
「それに、本当に自分だけが勝てばいいって思ってる人が、自分にしかない能力のことを明かすわけないじゃない」
呼吸することすら許してくれない――そういう威圧感が、ゆかりの言葉にはあった。
静かで穏やかな風のような響きなのに、私は全く反論することができなかった。
「ねえ、私たちは信じるよ。猫ちゃんがずっとその特殊な力のことで悩んでたって、信じる。信じるし、力になる。私たちは離れたりしない、逃げたりしない。だから、もうこれ以上酷いこと言わないで。自分を傷つけないでよっ! 何があっても私たちは大丈夫なんでしょう! そう言ってくれたのは、猫ちゃんじゃんっ」
上様も、ゆかりの隣に立って叫んだ。
「そうだよ。猫ちゃん、言ってたじゃん。何があっても私たちは大丈夫って! だから……」
「全部嘘だよ! 私は二人にずっと嘘を吐いてきた! これからもきっと吐き続ける、だから、何があっても大丈夫なんて嘘! だって、こんなクズと親しくなんかなれっこないじゃない! こんな気持ち悪い力を持ってる人間を、信じられるわけないじゃない! 何があったって絶対壊れない関係なんて、この世界にはないんだよ!」
「あるよ」
ゆかりが言った。
「ここにあるよ」
ゆかりが、近づいてきて、私の右腕を掴み、そしてもう一つの手で上様の手を掴んだ。
「ここにある。この三人は絶対に切れない。私が切らさない。どんなことをしてでも守ってみせる。初めての小学校に馴染めなかった私を守ってくれたのは、いつだって、猫ちゃんと上ちゃんだったから。今度は、私も守れるようになりたい、だから」
「辞めてよ……、小学生の頃の友達なんて、みんな最後は離ればなれになって、違う人生を歩んで、それで、……どうせどうでもいい存在になるんだよ! ううん、それならいっそ良かった。私のことなんて忘れてくれたら良かった!」
私は知っているから。
過去の自分と今の自分とを見比べて、絶望して、酒やギャンブルにおぼれていく大人たちのことを、私はこの身を以て知っているから。
「ならないよ。絶対に忘れない。賭けてもいいよ、猫ちゃん。もしも私が一瞬でも猫ちゃんのこと忘れて、ないがしろにしたら、私のことを殺してくれても構わない」
私は――絶句した。
まさしく今、私は、あのときの上様のお母さんと同じ顔をしていたに違いない。
上様を助けるために駆けつけた私が、上様のお母さんに如何に酷いことをしたのかということを、私は、理解した。
胸元にインコースを投げ込む?
冗談じゃない。私が上様のお母さんにしたこと――今ゆかりが私にしたことは、そんな生やさしいものじゃない。
デッドボールだ。
死球だ。
それも顔面に――いや心に。
相手の一番大切な場所に、予期せぬ剛速球をぶん投げたも同じじゃないか。
「いいよ、猫ちゃん。私は絶対猫ちゃんにそんな酷いことをしない。約束してあげる。だからもしも私が猫ちゃんを裏切ったら、殺してくれて、構わない」
「……やめて」
私は、掠れた声で呟いていた。
ゆかりの目がまっすぐに私を見ていた。
私はその強い意志に、底のない穴に吸い込まれてしまうほどの恐怖を感じた。
今になって、私は気がついた。
ゆかりは強い少女だったのだ、と。
私なんかよりもずっと、ずっと。
それはそうだ。私はゆかりだけを見て戦っていればいい。
私は仲間を見て、仲間に見守られて戦っていればいい。
キャッチャーの私は、守備において一度も敵と向かい合ったことがないのだから。
けれど、ゆかりも上様も、守備のときには、毎回敵と向かい合っているじゃないか。
それもゆかりは、ど真ん中のマウンドに立って、敵と一人で向かい合って、どんなに酷い試合になっても絶対に泣いたりしない。
そんな強い少女に、自分なんかが勝てるわけ、ないじゃないか。
「やめて、ゆかり。……私は、私、そんなこと、」
その瞬間、ゆかりが私を引き寄せ、抱きしめた。
「ほら、嘘だった。私たちのこと大切じゃないなんて、嘘だった。知ってたよ。私、猫ちゃんが最初から、私たちのために頑張ってくれてたこと、私、知ってた」
私が――この二人相手に勝てる理屈など、なかったのだ。
上様が、私とゆかりをまとめて抱きしめた。
力強い両腕だった。
力強くて、優しかった。
容赦のない優しさだった。
こちらの事情なんて考えない。
好意を押しつけてくる、心地よい強さだった。
そして上様が、私に囁いた。
「猫ちゃん、私は知ってるよ。私自身よりも、ゆかり自身よりも、猫ちゃんが私たち二人のことを考えてるってこと。だけどね、それと同じくらい、猫ちゃん自身が思ってる以上に、私たち二人は、猫ちゃんのこと、考えて、それで……大好きなんだよ」
三人で、崩れ落ちる。
抱き合って、わんわんと泣いた。
タクシーの運転手とか、ホームレスとか、そんな汚いものは知らない。
私たちはそうして、三人で、世界を置いてけぼりにして泣き続けた。
三人で体を重ねていても、私は二人の心を読むことができなかった。
その理由はどれだけ考えても分からない。
けれど――もしかしたら、三人の心が完全に一つになっていたからかもしれないと思えた。
何の根拠もない憶測だけど、もしそうだったら、良いなと思った。
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