私は迷子だ。
巨大な長岡駅の構内に駆け込むと、人気のなさそうな方を選んで走った。
しばらく走った私は非常階段に出ると、ポケットから携帯電話を取りだした。
うずくまり、震える右手で携帯の中に保存してあるアドレス帳をめくった。
体ががちがちと震えた。
後悔していた。
なんであんなことを言ってしまったのだろう、と。
その後悔は果てに、私はあの誓いまでも記憶を遡っていた。
電話をする――松城家に電話をかける。
受話器を取る音――「はい、松城ですけれども」
「榛名です、榛名猫です。松城上ちゃんのお母さんですか」
「……はい、そうですけど、」
「ごめんなさい」
通話の向こうの空気が硬直したのが分かった。
私は、不意に不気味な笑みがこみ上げてくるのを感じた。
震える体の底から、気持ち悪いほど笑えてきた。
上様のお母さんの心が読めない。
電話では分からない。
目の前にいない相手の心は、読むことができない。
――恐かった。
大人が恐かった。
いま通話している大人が、上様のお母さんが、私たちにどんな罰を下すのか、不安で仕方なかった。
私は今すぐに分厚い難攻不落の布団を被って、人類全てが滅んでしまうまで昏々と眠り続けたいと思った。
「どうして、謝るの」
優しい声だった――恐かった。
こんな声で私を心配できる人に、どうして私はあんなに酷いことができたのだろうと思った。
心が読めるからって。
自分が可哀想な生い立ちだからって。
どうして自分という人間はこんなにも浅ましく醜くなってしまったのだろうと思った。
「あんなこと誓ってくれなんて言って、ごめんなさい。お願いします、許してください」
「あの、一体、」
「怪我しました」
「……怪我? 今日の試合で? 上ちゃ」
「私がです」
震える体の奥から、さらに笑みが浮かび上がる。
自分を殺そうとするような痛みを叫ぶ左手の人差し指が生んだ悪魔だと思った。
私の体の中には悪魔がいる。
上様のお母さんは、上ちゃん、と言おうとした。
それはそうだ。
誰だって、自分の子供を心配する。
その当たり前のことが、目の前にテーブルクロスのように広げられた。
その瞬間、それをめちゃくちゃに壊してやりたい自分と、天上の光を浴びせられた悪魔のように縮こまり怯える自分と、二人の自分が体内に生まれるのを感じた。
そして私は――心の読めない大人に対して、無力だった。
私みたいに汚くない、家庭を持つ、綺麗な人間の前に無力だった。
さんざんクズだなんだと心の中で罵っていた相手に対して、私は驚くほどちっぽけで、矮小な存在だった。
声が、震えた。
「骨折しました。一ヶ月はボールもバットも握れません。次の、今日出場の決まった北信越大会に、私は出られません。たぶん、島田スターマインズは負けます。私たち三人が揃わなきゃ、スターマインズは負けるんです。……おこがましいお願いだって分かってます。でもお願いします。一生のお願いです。もうほかに何も望みません。だから、……今回だけは、見逃してください」
途中からは、言葉になっていなかった。
そういう風に言おうとしたけれど、正しい音にはなっていなかった。
口が震えた。
心が震えた。
嗚咽と痛みが私の口に蓋をして、まるで水の中でごぼごぼとおぼれているかのように、私の言葉をかき乱した。
涙がぼたぼたとこぼれ落ちた。
誰もいない非常階段にうずくまった私は何かの妖怪か獣のようだとも思えた。
ひとりぼっちの、醜い獣のようだ、と。
「私たちは負けます。でも、でも、私はまだ、上様と、ソフトをやりたいんですっ」
だから――
「それは、わがままと言うんじゃないの」
私は、通話口の向こうにいる女性が地獄に落ちればいいと思った。
上様のお母さんは、私の邪悪な思いには気づかずに言葉を並べる。
「事情は分かりました。でも、一度決めた約束をずるずると破るのは、良いことだとは思わないわ。だから、あなたの気持ちはよく分かったけれど、約束は、約束です」
今すぐに隕石が松城家に落ちれば良いと思った。
そうすれば、まだ帰っていない上様は無事だから。
そうすれば、この分からず屋の女は地獄に落ちてくれるだろうから。
「それにまだ負けたわけじゃあないんでしょう。あなたが信じた二人がきっと勝ってくれるって、信じなさい」
あるいは、天上から槍が降ってこいと思った。
この通話の先にいる女性と、そして私自身に。
口が震える。
喉元まで言葉が出かかる。
――私は裏切ったんです。世界中の何よりも信じなきゃいけなかった二人を、私は裏切ったんです。だからお願いします。私が死んでもいいんです。でも、あの二人だけは。
「それじゃあ、」
上様のお母さんのその言葉の続きを聞かずに、私は通話を切った。
世界の終わりは近かった。
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