銃声みたいに叫んだ。

「辞めちゃダメ!」

 上様は、私の声におびえた顔をした。

まるで強盗を見たみたいな顔だった。

そうなのかもしれない。

私は、この松城家から上様を奪う、強盗かもしれない。

地震が来たら崩れてしまいそうな上様の家は、なんとか数年前の震災には持ちこたえていた。

けれど、私はこんな家壊れてしまえと思った。

この家を壊すためなら喉を枯らしてでも叫んでやる。

バットも振るし、強盗だってする。

だって家は私たちを守るためにあるべきだ。

上様を縛り付けるために建っている家なんて、いっそ壊れてしまえと思った。

「……猫ちゃん、でも」

「上様には、才能がある」

 上様の顔がまた、熟れた柿みたいに歪む。

 その後ろから、上様のお母さんがやってきた。

事情を知っているという顔で私を見る。

その顔に対して、私は猛烈な怒りを抱いた。

私たちの何を知っているのだと怒鳴りたくなった。

「あのね、榛名さん。上ちゃんは、これからたくさん勉強しなくちゃいけなくて、」

 何が榛名さん、だ。

 そんな名字嫌いだ。

「野球の才能がないから勉強するんですか!? そんなの、逃げじゃないですか! そんな理由で始めたことなんて、どうせまた逃げ出すに決まってます!」

 上様が、ぎゅうっと首を絞められたみたいな顔をした。

上様のお母さんもおんなじ顔をした。

そのとき私は、ああ、この二人は家族なんだな、と思った。

 私はまた――ああ、なんで自分はこんなに性格が悪いのだろうと自己嫌悪に陥る。

 小学二年生のときに、上様がお母さんに言われて英会話教室に通っていたことを私は未だに覚えている。

上様のお母さんがそのとき何を考えていたのかまでは知らないけれど、上様は私たちに英語なんてと愚痴をこぼし、案の定一ヶ月も持たずに辞めてしまった。

 そのことを――きっと私は一生忘れないだろう。

だって、私は上様と一生友達でいるつもりなのだから。

 二人の心を読んだ私は、案の定二人が英会話教室のことを思い出していることを知ってほくそ笑んだ。

もちろん表情には出さないけれど、怒れる顔の下で、上様とお母さんを睨んで、ざまあみろと思った。

「じゃあ、聞いてもいいですか」

「なにかな」

 上様のお母さんが、怯えた顔で私を見た。

 ああ、知ってる。この顔は知ってる。

私は生意気な子供だから、上様のお母さんは、私のことが苦手なのだ。

私もこの家があまり好きではないけれど、それはお互い様ということだ。

 大丈夫――この顔は知っている。

 だって、私の両親と全く同じ顔だから。

相手の心を読む私から逃げ出した両親と、上様のお母さんは全く同じ顔だから。

だから私は、恐くない。

むしろ進んで、倒してやるとすら思う。

 未来を考えず、考えたとしてもそれを足かせに思い、思考を止め、ギャンブルに逃げるような醜い大人には、私は絶対に負けたりしない。

 私を恐れるような大人に、私は絶対に負けたりしない。

 そして願わくば、自分が大人になったときに、こういう顔をしない大人になってやると思う。

 だから言われるがままに勉強なんかしてやらないし、言われなくても勉強して見返してやると思ってる。

私は、お前たち大人が絶対にできなかったことをやってやると、思っている。

 だから、そういう醜い大人には絶対に上様をあげないし、ゆかりだって渡してやらない。

 上様とゆかりは、私の友達だから。醜い大人の愚かな思考で、二人の将来を決めるなんて、絶対に許さない。

そうして私たち三人の姿を見て、離ればなれになってしまった昔の友達のことを思い出してむせび泣けばいい。

私は性格が悪いから、そうしてむせび泣く大人を見て、いい気味だと笑ってやりたい。

「才能があれば、野球をやってもいいんですよね」

 上様のお母さんは黙りこくった。

私が何を言おうとしているのかを察して、その想像を信じられないのだった。

「じゃあ、――私たちが勝ち続ければ、野球をやり続けてもいいんですよね」

 上様のお母さんは――毒を盛られた顔をした。

 上様は――聖母マリアを見るような目で、私を見た。

 私は、怒れる表情のまま――決して内心の残虐な笑みを表に出さないよう、堪えた。

 上様のお母さんはエプロンを握りしめて、叫んだ。

「そんなこと、できるわけないでしょう!」

「できます」

「できません!」

「できるかどうか、見ててください。できないと信じているんでしょう。だから、こういうのはどうですか」

 そのとき、がらりと後ろで引き戸の音がした。

 私が振り返ると、私の分と、二人分のバッグを持ったゆかりが、ぜえぜえ息を切らして駆け込んできたところだった。

私は、そんなもの置いてくればよかったのに、と思った。

そんな間抜けなゆかりのことが、私はたまらなく好きだった。

きっと時間がかかったのも、二人分のバッグをどうしたらいいか分からずに、しばらくおろおろしていたからに違いない。

 私はもう一度、上様のお母さんを睨んだ。

「こういうのは、どうですか。私たち三人が揃ったチームがもしも試合で一度でも負けたら、三人とも、野球を辞めます。ソフトボールクラブも辞めます。それに、二度と上様に近づきません。勉強の邪魔もしません」

「そんな、」

「だからお願いします」

 反撃の隙は与えない。

上様のお母さんは、もう追い込んだ。

衝撃的な言葉で厳しくインコースを攻めたあとは、素早くアウトローで、つまりお願いする言葉を差し込めば、上様のお母さんはまず間違いなく距離感をつかめず見逃し三振だ。

 ――ああ、私は今、とんでもなく嫌な子供だと思われているだろうな。

 でもそれでいいんだ。

 司令塔役なんて、どのスポーツでも嫌な奴やるもんだ。

 自分に才能があるとは思わないけど、向いているとは思うのだ。

「お願いです。私たちに、もう少しだけ野球を続けさせてください」

 私は懇願する――表情を作り、涙目すらも演出してみせる。

 上様のお母さんは――信じられない、という顔だった。

 理解できまい、と私は思う。

ちっぽけな家の中に閉じこもって、ろくに考えることもしない大人に、私の想いなど、到底理解できまい。

 生まれてからずっと人の心を読んできた小学生の醜悪さなど、到底理解できまい。

 きっと、男ってこうやって落とすんだ、そんなことまで考えながら、私はすっと表情を切り替えて上様を見た。

「上様」

 私が呼ぶと、上様はびくりと肩を縮こまらせた。

「また明日、学校でね」

 私はぺこりと上様のお母さんに頭を下げると、ゆかりの手から自分のバッグを受け取って、歩き出した。

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