私は今日も昨日が恋しい。明日なんて、見たくない。
 せめてずっと今日のまんまだったら、私たちはどれだけ幸せになれるだろうかと夢想する。
 けれどそんな願いは叶わない。
 そのことを、私は知っている。

 私、榛名猫には超能力が二つある。
 人の心を読む力と、離れた場所にあるものを触らずに少しだけ動かす能力だ。
 前者――心を読む力は、使おうとしなくても無意識に使ってしまうものなので、これはもうどうしようがない。
 後者を使うことは滅多にない。
 なぜかって、疲れるし、それに使ってることがばれたらきっと親友二人にこっぴどく怒られるだろうから。
 人の心を読める私が、親友であるゆかりと上様と一緒に何をしているか。
 それは――野球である。


 ゆかりのウィンドミル投法で放たれたストレートが私の構えたミットに見事に収まった。
 ストライクだ――私はぐっと右手を握る。 
「ゲームセット!」
 私の背後に立っていたおじさんが叫んだ。試合終了――私たちは今日も勝利した。
 私たち――私とゆかり、上様は、草野球チーム和島フェニックスのおじさんたちと並んで、礼をする。
 そして、私はゆかりとハイタッチした。
「やったね」
「うん、これで新しい服買えるね、猫ちゃん」
 榛名猫――それが、私の名前。
 ゆかり――私の同級生でありバッテリーの相棒の名前は、宝塚ゆかり。
 私たちがおじさんたちと一緒に草野球の試合に勝てば、私たちはおじさんたちからご褒美というなのお小遣いをもらえる。
 それが、私たちを突き動かしているシステムだ。
 ことの発端は、もう一人の親友である上様のお父さんにある。
 松城上――それが、もう一人の私の友達の名前。
 だから、あだ名は上様。
 ピッチャーのゆかりと、キャッチャーの私と、ファーストを守る上様。
 最初は、職場の草野球チームに誘われた上様のお父さんのヘタクソなプレイを応援しに行ってた私たちだったけれど、その端っこで練習に混ざっている間に、いつの間にか私たちが試合に出て、上様のお父さんは送迎係になっていた。 
 小学生の女の子が草野球だなんて変だとは思うだろうけれど、私たちがハマった理由は一つだ。
 勝つと――お小遣いがもらえるのだ。
 打算だとか、健全な精神がとか言い出す人がいるかもしれないけど、世の中お金なのである。
 それにハンデもしてもらってる。
 ソフトボール部のゆかりが投げるピッチャーマウンドは、大人用の場所よりも前だし、私たちが打席に立ったときには加減して投げてくれている。
 それでも百キロ近いストレートなので、私たちはたじたじだけれど。

 なにはともあれ、今日の試合でも無事お小遣いをゲットした私たちは、意気揚々と上様のお父さんの車へ向かう、はずだった。
 ゆかりが、上様の横に並ぼうとするように歩き、声をかけた。
「ねえ、何かあったの?」
 私も、上様にそれを聞きたかったところだった。
 上様は、俯いたままだった。 
 私とゆかりに比べて上様の背は高い。
 百六十センチ近くある。
 髪は伸ばしているけれど、目は切れ長で、初対面の人にはよく恐そうだと言われている。
 松城という名字と、その研ぎ澄まされた刃物のような姿に、上様という名前はぴったりだと思っている。
 けれど、今日の上様は変だった。
 いつもは一本はヒットを打つのに、今日は三振の嵐だったし、エラーも二回した。
 試合に勝ちはしたけれど、それはきっちり相手の打撃を抑えたゆかりと、私の読心術リードのおかげだと思う。
「ねえ」
 ゆかりが心配そうに、上様の顔をのぞき込む。
 心配しているのはゆかりの方なのに、ゆかりの方が泣きそうになっている。
 それを見て、私も胸が締め付けられた。
 ゆかりは飼っていた犬が死んでしまったときもわんわん泣いたし、学校のウサギやカメが死んだときも、人一倍泣いた。
 そんなゆかりは、たぶん私よりも上様よりも、この三人でいる時間を大切にしていると、感じることがある。
 上様が立ち止まった。
 私とゆかりで上様の顔を覗き込む。
 そして私たちは、信じられないものを見た。
 上様の顔が、くしゃりと歪んだ。
 無表情というタイトルのマスクでもかぶっているのではないかと普段疑ってしまうような上様の表情が、道に落ちた柿の実のように、潰れた。
 涙が溢れ、すっと伸びた鼻先が、嗚咽とともにずずっと音を鳴らした。
 鼻水が垂れ、上様はそれをぐしゃりと腕で拭って、しゃがみ込んで泣き出した。
 ゆかりが上様の腕を引いた。
 そして私の目を見た。私はその意図を理解する。
 心を読んでしまう――泣き出した上様を見て大人のおじさんたちが駆け寄ってきてしまうのは、上様にとっても嬉しくないだろう。
 木陰に隠すように上様を連れてくると、上様は自分で歩けないほどがくがくと全身を震わせて、泣き出した。
 声を押し殺し、ゆかりの小さな体を、大切なぬいぐるみでも引き寄せるように抱きしめて、泣き始めた。
 ゆかりは、何が起きているのか分からないという顔をしていた。
 しかし私は分かってしまった――心が読めるから。
 上様が、何を言おうとしているのか、もしくは、何を言いたくないのかが、分かってしまった。
「大丈夫だよ」
 私は上様の震える背中に手を置いて、耳元に声をかけた。
「何があっても、私たちは大丈夫だから。……だから、恐いことがあったなら、言って」
 上様が、顔を上げた。
 熟れて潰れた柿みたいに、真っ赤に腫れ上がりびしょ濡れになった顔。
 その顔が、私に救いを求めた。
 私は頷いた。大丈夫――だって私はもう、上様が何を言おうとしているか、知っているから。
 動揺を表情に出すことは、ない。
 上様の心の中にひとつまみの安堵が浮かぶ――それが分かってしまう。
 こういうとき、私はたまらなく寂しくなる。
 上様の心を自分が操作しているような気分がして、吐き気がして、全てをぶちまけてやりたくなる。
 けれど、堪える。
 自分の醜さを全て飲み込んで、私は上様の手を優しく、産み落とされたばかりの卵を拾い上げるように握ってあげる。
「あのね」
 上様が、震える唇から、言葉をこぼす。
「私、野球、辞めなくちゃいけない」
 ゆかりが、驚いて口を開く。
 私はそれを視界の端で見ながら、驚いた顔を作った。
 自分こそ、作り物の表情で生きているのだということが、バレなければいいなと願いつつ。


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