短編小説『ブリリアント・チーティング』完結

――裏切ってでも、守りたかった。  著:水円花帆

 自分にできること――それは、誰にもバレないズルをすることだ。
 私は――相手ピッチャーによって放られた球が、ゆかりの振ったバットめがけて飛んでいくように、動かした。

 カキンッ――音と同時に走る。

真芯を貫かれたソフトボールは、内野に転がる。

サードの女の子がそれを拾いに行く。

私は、サードの女の子の手にあるグローブと転がったボールを操作して、エラーを誘発させた。

ああっ、と周囲がどよめいた。

 ゆかりと私が、塁に出る。

親指は痛くない。

――ただ、胸が苦しかった。

 もう私にはボールしか見えない。

バッターボックスには四番の上様が立った。

その構え、眼差しは、本当に、武士か将軍様のようにも見えた。

 ピッチャーが、ボールを投げる。

私は、再び操作する。

 二人に対する裏切りであることは分かっていた。

私の頬を涙が伝った。

親指は痛くなかった。

 それでも――私は、二人を守りたかった。

 

 上様が打った。

スリーランホームランだった。

私とゆかりは沸騰したようなベンチに帰り、上様を出迎えた。

 そして、本当に大丈夫なのかという安藤先生のくだらない心配を切り伏せて、私は最終回の守備についた。

ゆかりに向かって座り、サインを出し、バッターが見逃したボールを受け止めた。

その瞬間だった――ばきっ、という嫌な音が、左手に嵌めたキャッチャーミットの中で鳴った気がした。

 完全に予想していなかった。

どれだけ考えて想像していたところで、結局人は無防備な瞬間をさらけ出してしまうのだった。

私は、けれど――堪えきった。

左手からこぼしかけたボールを、空中で、慌てて右手でキャッチし、ゆかりに投げ返した。

ゆかりが首を傾げたけれど、私は笑ってごまかした。

その私の笑顔は絶対に笑顔などにはなっていなかったけれど、マスクのおかげでバレてはいない。

 二度目はない――もう一球たりとも、この左手でキャッチなんてできない。

第10話を読む

 世界が弾けたようになる。

私は無我夢中でうずくまる。

指を押さえる。

 自分自身が心臓そのものになってしまったかのように、どくどくと全身が波打つ。

目をつむる、開く――どうすれば世界が見えるのか、まるで分からない。

 ただ頭の片隅で、デッドボールだ、という言葉だけが何度も何度も再生される。

 デッドボールで、それはつまり、自分は出塁してもいいということで。

「猫ちゃん!」

 私は、目を見開いた。

グラウンドが小さく湿っていた。

雨かと思った矢先、それが自分の涙と汗によるものであるということに気がついた。

私は顔を上げた。

ゆかりと目が合った。

 左手が、私を殺そうとしているかのような、猛烈な激痛を叫んでいた。

「猫ちゃん! 指、見せて」

「だいじょうぶ」

「大丈夫とかじゃないの、見てもらわないと、」

「だいじょうぶ」

「でも、」

「大丈夫だからッ!」

 叫んでいた。

ぶっ倒れそうなほど、左手の親指が痛かった。

「見せなさい」

 審判の男の人が、私の顔を覗き込んできた。

 私は――裁判の舞台に上る死刑囚の気分だった。

もしもここで私が降りたら――私たちは負けるだろう。

私のリードでなければ、ゆかりは上越ソフトボールクラブの打線を抑えることなどできないはずだ。

私は静かに深呼吸し、立ち上がり、バッティング用のグローブを外すと、左手を差し出した。

 指は真っ赤に腫れていた。

私は全身に力を込め、胸中で叫んだ――耐えろ、と。

 嘘をつけ。

全てを騙せ。

自分すらも、騙しきれ。

 折れてない――折れてない折れてない折れてない折れてない折れてない折れてない。

 絶対に私の人差し指は折れてない。

 だって折れてたら――ゆかりのボールを受け止めきれない。

 お願いします――お願いです、神様お願い、お願いだから――

 審判の男の人が、私の親指に触れた。

その瞬間――私は、左腕がなくなったと思った。

驚きに、目を見開き、眉を潜めた。

「痛い?」

「……痛くありません」

「本当に?」

「はい」

 ――本当に痛くなかった。

痛いとかそういう問題じゃなく、触られていることが分からなかった。

ただ脂汗は出続け、自分がやせ我慢しているということだけは分かった。

それを悟られまいと、全力でただ立ち尽くしていた。

「折れては、いないみたいだね。でもヒビが入ってるかもしれないから、」

「だいじょうぶです」

 私は呟く。

グローブをはめ直し、ヘルメットを脱いで一塁へ向かう。

「猫ちゃんっ」

 ゆかりが心配そうに私の名前を呼ぶ。

けれど、私は微笑んで返す。

「大丈夫」

 一塁に立った私は、自分が、世界中のどんな極悪人よりも悪い顔をしている気がした。

不安げに打席に立ったゆかりに視線を送りながら、私は冷徹な目で相手のピッチャーを睨み付ける。

 ――容赦しないと、誓ったじゃないか。

 相手ピッチャーが投げる。

そのときにはすでに、ゆかりは私を見ていない。

ゆかりは目の前のボールに集中している。

その集中力は流石だと思った。

そして私も、自分にできることをしなければ、と思った。

第9話を読む

 私は、強く拳を握りしめた。
 大した覚悟もない小学生などを相手にして、負けるわけがないのだ。

 私たちは無事に初戦を勝利した。

私とゆかり、上様は三人でハイタッチを交わした。

それを見ていた安藤先生は、この試合中だけで四歳は老け込んだようなため息をこぼした。

バッティングでは、二番が私、三番がゆかり、四番が上様という打順が入部以来の固定であり、普段草野球のおっさんたちの球を見ている私たちにとって、小学生の女の子が投げる球にバットを当てるなど、そう難しいことではないのだった。

ゆかりのピッチングも、私の能力と併せて冴え渡り、試合の結果は九対〇と圧勝だった。

 

 そして、お昼休憩を挟んでの二試合目が始まる。

 私はマウンドに上ったゆかりの側で、呟いた。

「絶対勝とう」

「うん」

 頷き合い、私はキャッチャーとして駆けだし、座り、ゆかりを見た。

「プレイ!」

 二試合目は、上越ソフトボールクラブというチームだった。

 こういう公式大会以外で私たちが戦うことはなく、データも乏しいためリードには慎重を期す必要があった。

しかし――一番バッターのスイングが、ゆかりの投げたボールをかすめた。

ボールは前に飛び、ふわりと浮かび、外野と内野の間、難しいところへ落ちていく。

 あっ、と私は声を上げた。ボールが落ちた。ランナーが出てしまった。

 一塁ランナーはすかさず盗塁を敢行――足が速い!

 私の送球も間に合わず、盗塁によって私たちは二塁を奪われる。

 私は――一度、自分の頬をぴしゃりと叩いた。

二塁にランナーがいるということは、次にボールが飛んだ場所によっては、得点があり得てしまう。

そうなれば――敗北が、近づく。

 私は容赦しなかった。

ゆかりにインコースを要求。

ボールを僅かに下に滑らせ、二番打者を詰まらせた。

 小学生の大会では、変化球をストライクに取ってもらえないケースが多い。

しかし、縦に、しかもバットで見えないほど僅かな変化をさせるだけならば、審判にはわかりにくいし、打った本人にも違和感が残る程度だ。

その違和感も、目測を誤っただろうかと自分のせいにして流してしまえるだろう。

 この、バッターの手元で私が動かす変化球は、まずバレる要因がない。

内野手が転がった球をさばくのをミスれば話は別だが、最初からランナーを出さなければそのミスだけで得点に繋がることはほとんどない。

また、詰まらせるだけでは怪しまれると考え、浮き上がらせることでフライにするのも忘れなかった。

相手チームのバッターが、みんな、距離感を狂わせていく。

 しかし、勝利するためにはそれだけでは足りなかった。

「……ヒットが出ないな」

「そうだね」

 上様が呟く。

私が頷く。私も上様も、最初の打席では二人して討ち取られていた。

相手は速球派だった。

それも、八十キロ以上のストレートを持つ、ちょっとした怪物ピッチャーだ。

いくら草野球で速い球に慣れているとはいえ、その速い球をばかすか打っているわけじゃない。

速い球を見慣れているだけで、同じような速球がくれば当然私たちは打つのに窮することとなる。

「打てそう?」

 私は上様に尋ねる。

四番の上様が打てない球を、私たちが打てるわけがないのだ。

「当てることはできると思うけど……セーフになる保証はないし、私一人が出てもねえ」

 そうなのだ。

本来、上様は私たちランナーをホームに帰す役目を帯びており、上様の前にランナーが出られないと、上様もどうしようもないのだ。

 四回表――もしかしたら、時間切れによって最後の攻撃のチャンスになるかもしれない。

 ツーアウトで、二番の私に打順が回る。

正直に言って、勘弁して欲しかった。

ここで奇跡的に私が塁に出られても、次のバッターはゆかりだ。

上様まで回すには、ゆかりも塁に出なければならない。

 どうする――この攻撃に賭けるか、次回の攻撃に賭けるか。

 私は――ピッチャーがカウントを悪くして崩れてくれやしないかと待とうと思い、その一球目を睨み付け、

 ――時間が止まったような気がした。

 ボールがまっすぐに私の方へ飛んできた。

悩んでいたせいだろうか。

私の頭の中は真っ白になり、ボールは、右に構えていた私の左手の人差し指へぶつかった。

第8話を読む

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